国立天文台ニュース No.24 (1992年5月1日)

元東京天文台教授・長澤進午氏は、去る3月4日逝去されました。享年82歳でした。

 先生は、熊本県のお生まれで、昭和8年東京帝国大学理学部天文学科を卒業後、昭和16年東京大学理学部助手に任ぜられ、昭和30年東京天文台助教授、昭和36年教授に昇任されました。昭和35年より昭和45年に停年退官されるまで、東京天文台附属乗鞍コロナ観測所長を勤められ、永年にわたり天文学の研究・教育に専心され、太陽物理学とくにコロナなどの太陽面現象の研究に数多くの業績を挙げるとともに、乗鞍コロナ観測所が国際的に第一級の地位を占めることに決定的な役割を果たされました。

 ここに、先生のご生前を偲び、謹んで、ご冥福rをお祈り申し上げます。


長澤進午氏を偲んで

平山 淳

 長いこと旧東京天文台の太陽物理部長兼乗鞍コロナ観測所長をしておられた長澤進午先生が去る3月4日に永眠された。享年82歳であった。 長澤先生は、東大理学部天文学科を昭和8年に卒業、大学院を経て一旦は東京天文台に就職されたが、戦中・戦後の1942年より1950年までは運輸省の鉄道技術研究所などに勤めておられた。東京天文台の乗鞍コロナ観測所が開設されたことに伴い、当時の所長であった野附先生等に懇請されて転職し、停年までの10年間は第2代所長として労苦の多い仕事をされた。1970年に東京大学教授を停年退官後は東京理科大学教授として十数年にわたり教育に専念された。

 先生の研究は、萩原雄祐先生との惑星状星雲の理論から始まり、天文台の塔望遠鏡により当時最先端の太陽黒点の分子スペクトルの観測的仕事にとりかかられ、1939年に田中務(東大・物理)、斉藤国治氏との共著で立派な論文となって結実した。その後数年たたずして逓信省の中央航空研究所に移られたのであるが、その原因は黒点のスペクトルのような「きわもの」にすぐ飛びつくのはよくないという台長の意見で田中先生が天文台出入りをさし止められたことにあるようで、若かりしときの真摯で意気軒昂な姿が偲ばれる(下記)。

 三鷹に再就職されてからは、当時唯一つしかなかった「乗鞍」という天文台の施設の運営に苦心された。御自身も長期間山頂に滞在して観測器械の立ち上げに昼夜兼行で働かれ、それが元で長期間の病気療養を余儀なくされた。西・日江井両氏やさらに後には守山さんが加わり、技術陣容も整って来る頃には、大好きな研究にも時間がとれるようになって、黒点を伴う太陽活動領域の上層でコロナが明るくなるのは黒点及びプラージが発達する前の段階であることを世界に先駆けて導かれたり、また現在「コロナの穴」と呼ばれ「ようこう」でもふんだんに見られる、コロナが異常に暗い太陽面上の大きな領域を発見されたりしている。これらは、乗鞍コロナ観測所のルーチン観測等を用いた統計的研究であったが、御自身がもっと惹かれていたのは理論的研究であって、チャップマン・カウリングの本を勉強されて、プラズマにおける電気伝導度を導く著名な仕事を残された。

 吉祥寺から野田の理科大への長い通勤時間の間に、フランス語で小説を読まれ、また「ローマ帝国衰亡史」や「純粋理性批判」などを読み切られて「君もぜひ読みたまえ」「はい、停年になりましたら……」というような会話をしたことが思い出される。葬儀では、モーツァルトのシンフォニーが御遺志によって流され、また御子様方にはお母さんを大切になさい、80を越えて自分が死んだら赤飯を炊きなさいといわれていたという。彼の地で、読書や音楽を存分に楽しまれるようお祈りする。


国立天文台ニュース No.13(1990年7月1日)

戦争前から戦後にかけての想い出

元東京天文台教授・長澤進午 (乗鞍コロナ観測所第2代所長)

 本年コロナ観測所四十周年誌が出版されました。

 1950年の元旦は皆様と一緒に山上で迎えました。 然し実は筆者はその時はまだ鉄道技術研究所の職員で、所の方へは事情を話して了解して頂き休暇の扱をしてもらって山に参ったのです。筆者は東大天文学科の卒業後に萩原雄祐先生(当時東大教授、のちに東京天文台・第5代台長)の御骨折りで1935年9月から翌年3月まで東大物理学科の田中努教授の許で分光器の扱かい方を実習し、翌年4月から東京天文台の嘱託となり塔望遠鏡で、週に一度天文台まで指導にこられた田中先生の下で地下室の大分光器の整備に努力致しました。此が大体終わった1938年の秋に太陽に大黒点が出現しました。そこで当時私を手伝って下さった斉藤国治君(当時東京天文台嘱託、のちに教授)と一緒に「この黒点のスペクトルを撮って見よう」とガイド装置等に工夫して、一枚24㎝の長さの乾板26枚の撮影に成功しました。。田中先生は此を見て大変喜ばれて、測定は自分がするからと、本郷の御自分の研究室に持参されました。翌年1939年に「Band Spectra in Sunspots」という論文を我々も入れて3名の名で発表されました。さてこの論文を出版される前后に起ったと思うのですが、関口鯉吉台長(第4代)の命令でしょうが、田中先生の天文台への出入がさしとめられて了いました。不審に思って筆者が台長に御目にかかると、「君、黒点が出たといって、そんな際物にすぐとびつくのはよくない」と一言、田中先生を本郷の物理教室に御訪ねしたら、先生は我々の撮ったスペクトルの乾板26枚を机上に積み上げられてただ一言「君、此は決して天文台には渡さないから。」

 整備がやっと終わって、さてこれからという時にやめさせられた田中先生の無念の程は察するに余りある次第です。然しそのあと自分でよく考えて見ると、この事件の直接の原因は何といっても筆者が田中先生に相談もせず、更に斉藤君までひき込んで、台長の所謂る際物である黒点のスペクトルを撮影した事にあります。悪意はなくとも田中先生に大変な御迷惑をおかけしたことは間違いありません。あとには斉藤君が居られることから、ここは筆者が天文台から身をひくことであると決意をしました。丁度その頃三鷹に出来た中央航空研究所に勤めて居た友人のすすめもあって1942年春にこの研究所に移りました。

 此までのすべての事情は骨折って入台させて頂いた萩原先生には全部申上げてありますので、中央航空研究所(以下中研とする)に行く話は勿論先生にもちゃんと報告致しました。先生は私の気持ちをよく了解して下さって、おとめにはならず、更に有難かったことは私には話さずに中研まで御出で下さって所長に面会されて事情をはなして下さった様で、心から先生の御厚情に御禮申上げる次第です。

 さて中研の所長、花島孝一海軍中将は昔、東大理学部の物理学科で専科学生として物理学を当時の錚々たる先生方について勉強された方で、特に寺田寅彦先生を尊敬して居られたとの事です。そのため筆者をも物理学者として大切にあつかって下さいました。勿論萩原先生の御力も大きいと思います。陰湿な天文台からきた筆者には久しぶりに明るい青空の下での仕事でした。終戦とともに廃庁となり鉄道技術研究所にひきとられ、そこで筆者は何と「雪崩の研究」をして居りました。この男が天文台にもどるきっかけは全く偶然なことなのです。1949年のたしか春に天文台の官舎に用事があって立ち寄ったのですが、その帰り道で中野三郎先生(当時技師、のちに教授)にばったりと出会ったのです。そのとき先生から「今野附さんが乗鞍山上のコロナ観測所のことで苦労して居られる、もう一度君は天文台にもどって野附先生を御援けしなさい。」この旨を私が野附誠夫先生(当時技師、のちに教授、乗鞍コロナ観測所初代所長)に伝えるとすぐ復帰がきまりました。

 因みに、1963年8月25日に宮地前台長(第6代)、野附前所長と御一緒に田中努先生を山に御招きしました。田中先生は帰り際に私をよんで「君、此で私の天文台での怨みはすっかり水に流したよ。」


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