国立天文台ニュース No.22 (1992年1月1日)

東京大学名誉教授・末元善三郎先生は、去る12月5日逝去されました。享年71才でした。

 先生は、富山県のお生まれで、昭和18年東京帝国大学理学部天文学科をご卒業後、同年東京天文台助手に任ぜられ、昭和26年助教授、昭和36年教授に昇任されました。昭和40年理学部に配置換、昭和52年東京天文台に配置換、以後昭和56年停年退官に至るまで、天文学の教育研究に貢献されました。この間、昭和52年から4年間東京天文台長として管理・運営にも尽力されました。また、文部省測地学審議会委員、学術審議会専門委員、大学設置審議会専門委員、日本学術会議天文学研究連絡委員会幹事などの要職を歴任され、昭和63年からは国立天文台評議員として管理運営に助言を行ってこられました。

 ここに、先生のご生前を偲び、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


末元善三郎氏を偲んで

国立天文台長・古在由秀

 元東京天文台長・東京大学名誉教授・末元善三郎さんは、平成3年12月5日の夕方7時過ぎ、一週間足らずの短い入院での加療生活の後、逝去された。71歳であった。普段は元気な人と思っていただけに、突然の知らせに驚いた人が多い。

 末元さんは、神戸一中、第一高等学校、東京帝国大学理学部と進まれ、昭和18年9月に東大を卒業されると、直ちに東京天文台に採用され、研究生活に入られた。その間、太陽研究についての立派な卒業論文を書かれ、それが紙や出版事情の悪かった戦争中に、英文で出版されている。

 東京天文台では、長い間担当者のいなかった太陽塔望遠鏡を整備され、太陽フレアの分光観測に取り掛かり、フレアの厚みがとても薄いということを確認された。その研究で理学博士の学位を授与され、助教授に昇任の後、昭和26年12月イギリスに貨物船で渡られた。

 ケンブリッジ大学天文台でも塔望遠鏡を使って研究を続けられた。そして、彩層の温度が従来考えられていたよりかなり低く、6千度程であるという画期的な結果を導かれた。更に、ファブリペロー干渉計を用いて撮影した太陽の高分散スペクトルから、対流層の上層の流れの様相を明らかにするなど、大きな業績をあげられた。

 2年後に帰朝されてからも、塔望遠鏡で観測研究に励まれる一方、昭和30年には、当時のセイロン島で見られた皆既日食の観測に出張された。またその頃から始まった、岡山天体物理観測所の口径188センチの大望遠鏡の建設計画に参画され、据え付け当時は現地に長期滞在されて、その調整などの大事な仕事に没頭された。

 昭和33年の太平洋上、スワロフ島の日食観測では、回接格子を斜めに置くというユニークな方法で、スペクトル線の輪郭を非常にはっきりと捉えられた。それに基づき、太陽彩層では乱流速度が高さとともに増大すること、彩層はその底部にいたるまで非一様であることを見いだされた。この前者の性質は、彩層を持つどの恒星についても成り立つことが確認されている。それらの業績は、昭和42年の日本学士院賞授賞という栄誉へとつながっている。また、アメリカ・ミシガン大学などに客員教授として滞在され、昭和36年には教授に昇任された。

 更に、当時興ってきた日本のスペース科学の発展にも力を注がれ、創立当初の時期から、東京大学宇宙航空研究所の教授をも併任され、特にロケットやバルーンによる太陽の紫外線・X線の観測に大きな寄与をされた。そして、昭和56年に打ち上げられた、わが国最初の太陽観測衛星として大きな成果を挙げた「火の鳥」の計画では、その総括責任者としての任を果たされた。

 畑中武夫さんが亡くなって、昭和40年からは東京大学理学部に移り、天文学教育の任にもあたられた。その時期のいわゆる東大紛争にも、天文学教室主任として立派に対処されておられる。その間も、東京天文台教授に併任され、昭和52年から4年間はまた東京天文台に戻られ、台長を勤められ、東京大学評議員や、文部省測地学審議会委員、極地研究所評議員も勤められた。停年退官の後に、東京大学名誉教授の称号を授けられ、また、昭和63年に発足した国立天文台では、その評議員にもなって頂いた。

 末元さんはこの様に、何時も天文学の新しい面に着目され、多くの天文学者を指導し、育ててこられた。この間に、永年東京天文台の将来計画委員会の委員、日本学術会議天文学研究委員会委員として、わが国の天文学の進むべき方向について志向されてきた。また、天文学界を代表して文部省学術審議会の科学研究費補助金の第二段審査委員としての専門委員や、日本天文学会の欧文報告編集長、同理事長としても活躍された。また、国際的にも、国際天文学連合や宇宙空間研究委員会の会議に度々出席され、それらの活動にも貢献され、多くの人々の尊敬を得ておられた。

 末元さんは、この様に非常に優れた学識を持っておられ、特に太陽の研究で抜きんでた業績を挙げられた方である。厳格な人であったが、理学部に移られる前には、三鷹の官舎に住んでおられ、お正月にはよく百人一首などに興しておられたのを、懐かしく思い出す。二人の息子さんがおられるが、ご長男は、京都大学で物理学を修められ、現在東大の物性研におられる。

 末元さんのご冥福を心から祈りたい。


天文月報 1992年6月号、p.269

見事な一生を過ごされた末元先生

日江井栄二郎

 末元先生は学問にも芸術にも非凡で多才な方でした。何事も最高のものを楽しまれたので、現職中は芸術の才が現れるのを抑え、天文学の研究、教育に力をそそがれ、研究にはきびしさがありました。

なにごとでも、その事柄の奥の、またその奥に流れている原理を考察されましたので、末元さんとの話には常に深みがありました。世界の研究者は、末元さんの独創的な研究や含蓄のある考え方に一目置いていました。研究だけでなく、天文学の進むべき方向などについても洞察力と先見の明を持ち、識見の高いお考えを述べられていました。

 人の才能を見抜き、その長所をのばすのが巧みでした。多くの弟子を育てました。太陽の分光観測、日食観測、磁場の観測、高空間解像度の観測、バルーン・ロケットによる観測、科学衛星による観測等指導力を発揮され、東京も京都も融合した強力な研究グループによって立派にひきつがれている。

 生来、何かを創り上げるのを好まれた。作品は、観測装置や望遠鏡の部品にせよ、船や日常の調度品にせよ、どこかに工夫がこらされていて、出来具合だけでなく、その機能も精妙そのものです。

 1957〜58年代、元東京天文台の塔望遠鏡を清水実氏と共に、太陽フレア観測用に改良した。ヘリオスコープ装置をつくり、3600Åから7000Åのスペクトルが一度に撮れる大型カメラを自作した。これで撮れたフレアスペクトルを、コンパレータの部品などを集めて作ったマイクロ・ホトメーターで観測した。 そしてバルマー線巾から電子密度を求める「末元の方法」を使い、世界で初めて、分光学的にフレアの微細構造を明らかにした。

 1958年スワロフ島日食では、彩層の輝線巾に彩層の厚さの影響がないように工夫された「斜入射法」という新装置でフラッシュ・スペクトルの撮影に成功し、彩層の乱流の研究をされた。この時使った60×40×10cmという自動大型カメラの完成が遅れぎみであったので、人見街道を約10km、夏の暑い日を自転車で工場に日参した。そこに居た中村義一氏と共にヤスリをかけたり、ボール盤を使ってカメラを作り上げたが、その時の末元さんは実に楽しそうであった。

 退官後は、趣味を楽しまれていた。午前中は国立天文台で、カルシウムK線のスペクトルから粒状斑間の輝点の性質を研究し、午後は自宅でコンピューターを駆使して研究のための解析をし、夜は庭に置かれた口径20cmのミードのシュミット・カセグレン望遠鏡で、奥様を記録係にされて共に星の観望を楽しむなど、一日をひとの数倍充実した過し方であった。

 ハーモニカも吹かれたが、楽譜を見ながらコンピューターに入力し、自分流に音楽をつくり、コンピュータの演奏を楽しんでいた。モーツァルトやべ一トーベンや、特にシューマンのピアノ曲を好まれた。またコンピューターの1024色を巧みに使いわけ、印象派の絵をもとにして、絵画をつくられた。 寝る前には、原書で小説を読んでいた。プルーストとかゲーテを好まれていて、ゲーテの詩を読んでいるところであった。

 天才と秀才とを合せ持った方であり、研究には峻厳、弟子教育には寛厳よろしきを得、現実的問題には清濁併せ呑む雅量を持っていた。楽しみつつ為したことが、天文学の研究であり、絵画、音響、物を創ることであったようだ。長年知己であった阿弥陀寺の住職が言はれたように、実に見事な一生を送られた方です。「天輝院釋善王」という戒名からもうかがはれる。   合掌


国立天文台ニュース No.11(1990年3月10日)

随想

元東京天文台長・末元善三郎

 東京天文台の皆様が何年かに亙って討論に討論を重ね、傍目にも気の毒のような御努力をなさったのが実を結び、一昨年7月に国立天文台が発足したのですが、以後、私が一番心配していた管理の強化のような徴候がいささかも感じられないのでほっとしています。正門の表札が掛け替えられただけで、守衛所がいかめしくなったわけではなく、春には正門前の八重桜が今まで通り咲き誇り、ロータリーの植え込みは四季折々の美しさを見せて呉れています。正に皮相の見かもしれないのですが、自由なアカデミックな雰囲気は移行によって些かも損なわれてはいないと思われます。

 組織が立派になりますと、ともすれば管理の立場にある方々が組織にとらわれ、組織が先行し、研究者の気持ちが歪められがちでありますが、そのような心配は杞憂であろうと思っています。なにしろ天文学の進歩発展は目覚ましく、研究分野の栄枯盛衰にはまことに目を見張るものがありますから、十年を出でずして今決められた組織の中でどういう風に新しい趨勢に対応するかというような問題が必ず出てくると思われるからです。そんな時には銘々が天下を脾睨するような気持ちで事に当たれば、縄張争いのようなことにはなり難いのではないかと思います。ここに天下というのは天下に現にいる人材のことです。いくらこういう研究をするべきだと言う議論があっても、当てはまる人材がなければ致し方がありません。 人材が学問の流れを作っていくのです。

 東京天文台時代からそうだったのですが、国立天文台も又日本の天文学の限られた部分に対してではなく、殆ど全体に対して責任を持ちます。特に観測面においてしかりであります。それは日本には天文学の教室、研究室や天文台の数が余りにも少ないと言う事情によっています。従って、台内には現在はやりの分野もあれば、日の当たらない分野もあります。共同利用の有効な分野もあれば、共同利用に全く馴染まない分野もあります。どれもこれもそれをやりたい研究者がいる限りは大切に育てなければなりません。すべては研究者の発意に委せて、成り行きを見守るしかやりようがないのです。

 組織は所詮只の入れ物であり、元来固定的なものであります。その中にいかに流動きわまりない天文学の研究を当てはめて運営するかが、管理の立場に立つ方々の責務であると言えましょう。このためには、今出来たばかりの研究系の組織の枠組の中ででも、研究系を超えた自由な発想で研究者の方々が御活躍下さることが肝要と思います。長期的には組織の見直しも必要ではありましょうが、組織を変えないと動けないというのではなく、現在の枠を超えて先ずどんどん実績を上げていく気概が大切だと思います。

 東京天文台時代からそういう傾向があったのですが、国立天文台の設立というような巨大な一点集中が行なわれますと、国内の他の研究機関の発展を知らず知らずのうちに妨げるようなことが起こりやすいものであります。それを共同利用や人事交流で補うだけではなく、各地に立派な裾野を育てる努力も重ねて頂きたいと思います。自分の創意で観測をしたいという意欲が全国に満ちていてこそ、巨費を要する共同利用研究の発展が期待できるからです。そのためには巨大ではない観測、研究が従来よりもっと盛んに全国各所で行なわれなければなりません。相手のあることでもあり、大変難しい事とは思いますが、私のいわゆる全国を脾睨する意気込みで色々と努力して頂きたいと思います。

 立場が逆転しますが、大気外からの観測は地上観測と相補的関係にあるものでありますから、これからも宇宙科学研究所の共同利用研究にたえず積極的に参加して頂きたいと思います。

 大きい組織を運営するのは学者にとっては大変なことであります。その見返りとして、大きい組織の持つ或る種の力を最大限に活かして、大望遠鏡を始めとする立派な将来計画を着々と実現し、組織に圧しつぶされることなく、自由なアカデミックな雰囲気をいつまでも持ち続けて、日本の天文学を超一流の“宇宙を眺めつつ考える”天文学に発展させて下さることを信じております。

 何年経ってもグラウンド沿いの梅が芳しく、正門の紅葉が美しく感じられる事を願ってこの稿を終わります。


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