§18 環境衛生及び疾病

 昭和24年,乗鞍山頂にコロナ観測所が建設され,3000mの高山における越冬試験観測が始められた。当初,食糧はもとよりあらゆる物資が欠乏状態であり,加えて狭あいな密室同然の建物の中での生活は,気が狂ったり病気になったりはしないか,怪我をした場合は何うするかなど,生活面のいろいろな角度からまじめに心配されもした。当時は敗戦間もない頃のことで,毎日の食糧は乏しく,配給物資そのものでは生活を維持することが困難であり,買出しや闇物資に頼るところが多かった。この山上で越冬生活をするについて,主食の米は地元県の特別な計らいで4分の1を,残りの4分の3は買出しなどで補った。その他の食糧や物資の確保については,関係各位の並々ならぬ努力と協力によるところとなり,その中には当時の東京あたりではお目にかかることすら出来ない「貴重品」とされたものもあり,かえって下界に生活する人々に対しての申訳なさと感謝の念が生じたことである。 こうして生野菜を除く8ヶ月分の食糧,燃料,物資が天井裏から床下まで蓄えられ,狭いながらも楽しいわが家で,新しい目標に向かって仕事を遂行するという精神が,お互い同志を庇い援け合いながら,心配された事故もなく無事一冬を経過することが出来た。
 敗戦という憂目にあって,ひたすら自由な文化の国を願い夢見る時機に合せて,新しい科学研究の面で台頭したコロナ観測所の建設という事業は,心の灯ともなって,だれしもが協力をおしまなかったことである。
 調理は観測員が交代で行ったが,気圧が低いために沸点も低く,米飯は圧力釜を使用したものの,炭火コンロやストーブでは充分な火力を得ることが出来ず,炊事には可成の苦労と忍耐が要求された。
 初年度は観測室5坪,廊下,玄関1坪,倉庫,便所,発電室,暗室,炊事,通信,食堂,ベットが合せて9坪といった非常に狭い雑居で,5人目からの宿泊には床に米俵を敷いて仮眠した。特に交替日となると倍の8名に加えて人夫衆が加わり,廊下までの雑魚寝となった,翌昭和25年には18坪が増設されて,生活面にも余裕が出て来た。次第と要員の増員が行われたが,半面気管支炎や疲労によって体調を崩す人が出て,山上では回復しないで下山する人が多くなるにつけて,生活環境と衛生面の改善が問題となった。
 当時東京大学塩田外科主任教授の塩田広重先生を通じ,国立予防衛生研究所長小島三郎先生に相談の結果,日本医科大学衛生学教室乗木秀夫先生に依頼,環境衛生と生活面についての調査指導を願うこととなり,昭和27年より毎年現地での精神疲労度,作業量調査及び室内環境の人体に及ぼす影響が調査検討され,食事,栄養価の分析と指導,環境衛生と生活指導,医薬品,医療器具等の助言指導がなされ,年々改善されていった。
 なお,出張中における疾病は生活環境の改善に伴って減少したが,特に精神的な安定保持の特効薬となったのは,一般加入電話が入ったことによるといっても過言ではない。
 怪我についてはスキーで下山中の骨折,捻挫が大部分で,安全なスキー技術の習得と伝達を目的とした指導者の養成を計った結果激減した。
 一方疾病や怪我などの緊急事態に際して,もっとも安全にして速やかな救急を行なう為に,冬季にあってはスノーボートやスキー利用によっての移送となるが,これ等の操作と医師に診てもらうまでの間の応急処置を心得ておく必要があるところから,当時日本赤十字社や文部省が主催した講習会に参加して修得した技術を伝承した。
 公務中における災害については,昭和28年より認定のための請求を行ったが,18件が認定された。
 冬季の登山については初め深雪をラッセルして殆どの人は輪カンジキによったが,漸時スキーを利用するようになった,しかし,相当な労力と時間を費することで交替の為の登山となると天気との調整に腐心した,其の後スキーリフトや雪上車の利用によって体力が温存され,装備具も年を追って改善されて,当初のような凍傷や体力の限界まで労費する心配はなくなった。
 緊急時における救急医療の面では冬季は信大医学部に,夏季は高山市の白川医院並びに久美愛病院に依頼,出張前と定期健康診断は属託医の西川医院に依嘱したが,年とともに改められて別表のようになった。
 生活の基本となる水については,当初雨水を屋根に受けて貯え,雪を融す天水の利用となったが,米国や中国における核爆発実験に伴う放射能汚染が問題となり,ガイガーカウンターによる調査と平行してイオン交換樹脂,砂,木炭などによる濾過装置の取付けと,一度煮沸して使用するように進められた。 年を加えるに従い使用水の量も多くなり天水では賄いきれなくなって,宇宙線観測所と協力して権現池の水をサイホンと押上ポンプで揚水されるようになり,本格的な濾水機の導入によって精密濾過が行われるようになった。 人が住めば鼠が発生すると言われる当時,秋になって山小屋を閉める頃となると登山路を伝って観測所に鼠が集合し可成の被害を受けた。それでも開設当初の鼠は礼儀をわきまえた方で,山に積んだ米俵の真中の下一俵のみを平らげ,他のものには手をつけなかったこともあったが,ドラム缶に収納するに及んでからはその数も増し,一時は捕獲した者には白桃缶の賞品を出したこともあった。観測所敷地内に棲息するイタチによって鼠も壊滅的な打撃を受けたが,結局は残飯類の焼却処分などの後処理が行われるようになって全く姿を消した。
 外界と隔絶した山頂にあって,社会のニュースを聞きたいということは,正常な要求であるが,当初は毎日行われる通信連絡の電源である蓄電池の容量が小さく,さりとて発電機からのAC直結ではノイズで聞きとりにくかった。その結果無線担当者の特別な計らいで,1日7分間のみニュースを聴取することが許されたが,その他の娯楽と言えるものはゼンマイ仕掛の蓄音機とトランプのみであった。従って冬場観測所を訪れる登山客の弁当の包紙である新聞を横取りして,丁寧にシワ伸ししてむさぼり読んだものである。後年になってTVの普及に伴い,いち早く導入したが反射波がふくそうしてその調整には苦心した。夏場は高山より一日遅れの新聞が入るようになったが,これも最近では登山バスの好意によってその日のものが読めるようになった。