§17 荷物運搬

 信州松本よりの交通は,島々駅まで電車で島々駅から前川渡までは沢渡行か白骨行のバスを利用した,そしてそれより山頂までの行程は自分の足によらなければならなかった。夏場の登山客の多い時期は,上高地行なども加わり割合頻度も多かったが,冬季は 1日に3・4本といったところで,東京から夜行列車で松本に着き,駅の二階の食堂での塩汁での朝食の後,島々駅でバスの乗車のための順番取りに時間を費した。梓川沿いを走る(今の安曇ダムの底に当る)バスも,冬場は雪崩等のために奈川渡や稲核部落で打切りとなることが多く,「これより先は歩いて下さい」と運転手に宣言されれば,後は重い荷物を負うての難行苦行となった。従って夜明けの松本に着いてから,大野川の福島屋に着くのが夜となることも渡々のことであり,島々駅でバスに乗る時は先づ何処まで行けるか確かめ,状況によっては,大野川・番所からの人夫の出迎えの手配をするなど対応を考えたものである。
 昭和26年夏には鈴蘭までバスが入るようになったが,それでも冬場は番所の農協前までで,鈴蘭まで定期的に入るようになったのは昭和33年頃から,夏場乗鞍山頂まで入るようになったのは昭和39年と記憶する。
斯様な訳で,交替時における荷物の搬送は別表人夫賃金表にみる通り,番所・大野川・奈川渡といった料金の取り決めが見られることで,昭和35年からは,この項がなくなった。 交替時の登山には,新雪をスキ-でラッセルする人を先頭にし,”綿入半纏に頬被り”長靴に輪カンジキといった恰好の人夫衆が入れ替りながら雪を踏み固め,所員に続いて荷を背負った人夫衆(時に女衆)が続くといった具合であった。朝真暗な 5時に鈴蘭を発って,夕暮時位山荘に到達することが最も多く,その日の内に観測所まで辿り着くことが出来たのは,春先の日照時間の長い時期を除いて非常に稀なことであった。また天候が幸いせず,位山荘や冷泉小屋で沈澱することも日常茶飯事で,冷え切った蒲団の中にアノラックごと防寒具を着込んで寝たのわよいが,朝になったら蒲団の端やアノラックが霜で真白となり,又板壁の隙間から入った雪が蒲団の上に積んでいるということが当り前のことであった。荒天続きで長逗留を強いられたとき程惨めなものはなく,一刻も早く観測所に着きたいものと天候の回復を願ったものである。人夫の雇用は,昭和24年開所当所から昭和28年頃までは,福島清喜氏 (肩の小屋・位山荘・鈴蘭小屋主人)を請方としての請負方式であったが,次第と人夫衆から間に人を通さず直接個人との契約でやって欲しいとの要望が強まり,鈴蘭勤務職員にとっては人集めと言う新しい負担が課せられたが,その様な雇用形式をとることになった。これには運搬した荷物の代金が,現金という日銭の形で入って来る甘味も絡んでのことで,年々人夫の代表者との料金取り決めの交渉を行って運用された。昭和56年度になって,人夫個々ではあるが請負方式となり現在に及んでいる。料金表は昭和30年次前のものは資料が紛失した為に不詳となったが,昭和41年には雪上車が導入されるようになって,中間地点からは人夫に頼ることが少なくなったこともあり,料金の取り決めに当って鈴蘭より山頂までの距離と高度をグラフ上に地元大野川区の日当や安曇村日当・北アルプス登山案内人組合料金などを算定の基準の参考として取り決めを行っている。
 別表人夫衆の名簿は開設当初からのもので,この大勢の方々の氏名を見る限り,番所から鈴蘭までの殆どの家庭に及び,この方々の背によって観測所の運営の一端が支えられて来たと言ってもよいことで,村をあげての協力に改めて感謝するものである。 開設当初は今よりも数段粗末な衣服や装備で,胸まで没する雪をラッセルし,幾日もかかっての荷物運搬であったことを思い返すとき,一言,強かったなと述懐せざるを得ない。
 先日鈴蘭に於て,開設当初からの人夫衆(今では大旦那衆)と久方振りに会合する機会を得たとき,建設当時の話に花が咲いた。 敗戦間もない日本国中貧乏のどん底で食うに苦しかった折に,「大真面目な話 コロナ観測所のお陰で家族の命が繋がった」とのことで,随分大袈裟な話をと言えば,全員が口を揃えて真顔で本当の話だと返す。それは,鶴ヶ池の畔にアンペラ小屋を建てて集団で生活し,畳平から観測所の建設資材を背負い,池の水や砂・石を運んだ賃金が,一夏の働きによって当時のお金で一人平均 5万円になったとのこと,16才の一番年少者でもそうであったとか,そしてこれを家に持ち帰ったところ,親父に「何処から盗って来た」と問いつめられた,と当時を想起しながらしみじみと話した。この時代,大の大人が一日汗して 240円(ニコヨン)の御時世であり,たしかに大金である。親父さんに問いつめられても少しも不思議ではない話である。当時こうした働き手のバイタリティによって支えられて来た番所であったからこそ,今日の乗鞍高原が出現したのだと改めて見直し,有難い話を心に噛みしめたものである。(p.240 )
 冬季の登山について,近年では鈴蘭より 4本のスキーリフト(合計 2490m)を乗り継いで,高度差 540m 海抜 1990m の高度まで非常に楽な行程となった。このリフトが無い昔は,この高度差を稼ぐのに約 3時間の苦闘があったことで,それを考えると夢のようである。このリフトの利用については勿論地元の乗鞍観光と国設スキー場乗鞍開発公社の特別な協力があることを忘れることが出来ない。

イ.人夫衆名簿(乗鞍コロナ観測所雇上げ)          ・順不同・敬称略
 福島 清喜   筒木留之助   福島 吉勝   奥原 綱男   奥灘 増蔵
 筒木 増市   奥田 長利   斎藤 八Y   奥原 末蔵   斎藤 滝雄
 斎藤 初市   斎藤 辰造   筒木  功   筒木清太郎   筒木 兼重
 奥田 正三   上松 政市   筒木 沢市   中原 太十   中原 福松
 山本今朝春   上松 市男   筒木 清美   芝原 小作   中沢 末市
 斎藤伊野作   斎藤 国義   三浦定次郎   奥原 義男   上松  実
 上松 初蔵   良波 寅美   中沢朝五郎   丸山  修   福島利登吉
 中原 律二   小沢 住市   筒木 春市   斎藤 寿雄   斎藤 岩雄
 高橋 秀利   小沢 篤昌   斎藤  耕   斎藤市次郎   良波 浅人
 福島 立衛   筒木 作雄   奥田 義人   斎藤  武   斎藤 兼雄
 斎藤 正二   忠地 忠男   岡崎  猛   筒木 善一   筒木 安雄
 高山 信茂   中沢 岩松   上原 亀雄   斎藤 甫建   奥灘兼次郎
 奥灘光太郎   奥田 綱義   小沢 虎雄   上松  洋   斎藤 三春
 斎藤 義春   奥田 勝人   斎藤 寿秋   筒木 完一   中原 政直
 斎藤 民雄   良波 芳隆   良波 益男   上松 勝次   鶴見 文幸
 筒木 俊行   斎藤 勝幸   斎藤 広幸   斎藤 義昭   筒木  登
 中原 真夫   小林 敬和   久世 文郎   奥田 文男   斎藤 定清
 大石 君雄   高田 俊博   小沢 一豊   奥田 孝夫   良波 長司
 福島  実   福島 立実   小林 二郎   斎藤 七郎   筒木 和幸
 福島  真   奥田 利文   斎藤 福男   斎藤 久夫   筒木東洋男
 小出沢典男   小出沢末広   芝原 正一   奥原 満登   良波 光晴
 良波 博登   斎藤 留三   斎藤 寅蔵   小出沢正寿   中原 林三
 斎藤 勇次
 上松はつ江   斎藤ふじの   小沢としみ   筒木まさみ   斎藤きの江
 斎藤 一枝   芝原かず江   奥原かねみ   良波小美江   斎藤つるみ
 奥田 さき   筒木みち江   良波 永子   福島きく江   福島ふよ子
 上松せつえ   丸山ひみ江

(物故者)
 斎藤 長松   斎藤 太師   斎藤 秋義   水野 時良   良波 道夫
 小出沢 梓   奥原 喜春   山本 輝光   奥灘喜久雄   斎藤まし江