§16 登下山

 観測所を支える勤務者の登下山は,昔からの登山道に沿って自分の足で一歩一歩進まなければならないことで,気象変化の早い低温の高山では行動そのものが天候によって大きく支配され,加えて酸素分圧の低い環境に順応させる必要があり,冬季の登下山には特に体力に勝る精神力が要求される。昭和32年に到って,物資の運搬と連絡を目的として夏場のみジープが配備され,昭和41年秋には雪上車が配備されて登山時に於ける体力の損耗を防いで山上勤務にも余裕が出て来た。

イ.勤務者の交替と装備について
 開所当時,観測所に勤務する所員の交替は不定で,勤務者の仕事の性質にもよったが,大体は山頂勤務25日~30日といった状況であった。勤務要員の増加に伴って昭和28年頃から25日間の山頂勤務が固定した。昭和27年より日本医科大学衛生学教室の同行調査の結果によって,昭和33年頃より山頂勤務を20~21日とし年間18交替制となった。この調査結果とは東京を離れる平常の勤務時から登山して観測勤務を行い,下山した後1ヶ月間に亘る身体の状況を医学的に細かく調査したもので,調査項目には,屋内外の気温・湿度,栄養,疲労度,血液,尿,体重,血圧などで,下界に於ける平常値との比較測定が行われた。 観測所における気温は低く,湿度は甚だしく低いため睡眠の妨害となり,鼻・咽喉・気管支の疾病になり易いことや,栄養上からはどうしてもビタミン・カルシウム不足となりがちであること。疲労度の調査では登頂10日位まではかなりの疲労があり,肩凝り・口渇・なまあくびといった現象が起り勝ちで,これが精神的・感覚的に影響していること。
血液では初めの 1週間赤血球が急速に増加し,波状的変化をしながら 2週間後に安定し,血色素は赤血球より急激な増加をするが約 5日位で安定する,但し下山後の平常値に回復するには赤血球より,一層長い時日がかかる。尿は登山運動や酸素低下の影響を増幅した値となり,血圧・脈拍は約 2週間位で馴化する,といったものであった。その総合所見として,滞山 1週間は身体にかなりの変動があり,この変動が一応安定(馴化の状態)する値を示すには約 2週間を要する,但しこの安定とは高山特有の平衡状態とみるべきで,平常の地上の状態とは違う,下山後は少なくとも回復期間として10日位必要である。 ということで無理のない 3週間の山頂勤務という線が出た。
 自分の足で一歩一歩雪の中をラッセルして登って来るとき,年齢差にもよるが,勤務日数を短くするより回数を減じた方がよいと思う人や,中には山頂に1ヶ月滞在しても変化の生じない非常に馴化が早く変化の生じにくい人もあったが,仕事の安定化とともに定着した。
 其の後,昭和54年より,夏場の訪問客や観測の多い時期には交通の至便さも手伝って,勤務日数を 2週間に減じて疲労度を低くおさえるようになった。
 登下山に使用される装備については,開所当時はスキー靴・スキー・ストック・シール・ワカン・アイゼン・ピッケル・アノラック・キスリング・シーツ・観測防寒服(旧飛行服)・及び防水ミトンが官物で,その他は私物であった。物のない時代でもあり毛糸の靴下は登下山時のみに使用し,勤務中は専ら足袋が大変重宝されて,底に穴が開く頃になると交替出来る一つの目安となった。雪のない時期は地下足袋(勿論配給制のもの)で,雪の時には軍靴やゴム長靴を最大限に利用した。これには官物の装備具の員数が初めは四人分のみで,交替者を迎えに下るときに持参し,送って降りて途中から持ち帰って勤務中は観測所に備えるといった状態で,背に担った格好は弁慶の七つ道具に似ていた。その後出来るだけ個人の体に合ったものを買い調えるようになり,新規の採用者には仕度金として 3千円の補助を出したが,軍払下げのジャケット・手袋・靴下の毛ものを買うのがやっとといった有様であった。
 スキーは初めイタヤのヘソ付(今なら博物館モノ)で,サイドエッヂは当時まだ一般的でなかったので,自分で溝を切って特製のものを取付け,シール(貼り付け)をワックスで取付けた。ワカンは鈴蘭の特製で締紐は熊の皮を使用していた。上衣・ズボン・チョッキ・雪眼鏡・帽子それに下着類は夫々個人で用意したが,記録に真綿少々とあるのは凍傷から局部を保護するもので,装備の充分でなかった当時を象徴するものである。
 現在の装備具を見るとき,自然の条件が変った訳でもないが,あのささやかないでたちでよくやれたものだと改めて驚くほかない。
 交替時一歩づつ自分の足で雪を踏みしめ,地吹雪に顔をそむけて,稀薄な酸素にあえぎ,いくら歩いても一向に渉らない登高で,先を見ないよう心に言い聞かせて足もとのみを見つめて通った道であるが,今では時代の進歩と知恵によって,その大部分を乗物に身を委ねることによって体力を温存し,行動に余裕が出来て,明日からの仕事に心置きなく打込めることは非常に有難いことである。