§14 通信設備

 開設当初,乗鞍と東京を結ぶ連絡方法としては,安曇村大野川か平湯温泉まで約20km下山しなければ電話連絡が出来ない状態であったため三鷹と山頂を結ぶ無線設備が設置された。初めはモールス符号によったが,誰でも話の出来る無線電話に切換えられ,これに必要な訓練と資格の取得による要員の増加が計られた。
 昭和42年松本電報電話局と無線で繋ぐ一般加入電話が開設された。昭和56年に到って,無線機器の精度向上が要求され,新型機に切換えられるとともに,同一大学傘下,同一機器の使用という関係上から周波数を一本化して運用することとなり,宇宙線研究所附属乗鞍観測所と協同使用することとなった。 通信士・技術士については経度研究課の協力を得て運用したが,要員の拡充と三鷹固定局の廃局に伴って所員による運用となった。又発動発電機の保守については,初めは通信に必要な蓄電池の充電ということから,通信士の仕事とされたが,大型化と要員の拡充によって一本立ちした。

イ.三鷹・乗鞍固定局及各移動局の変遷

1)乗鞍との無線通信をする基礎となった三鷹の無線局について
 三鷹における無線送信装置は文部省測地学委員会の附属であった三鷹国際報時所(昭和23年 7月10日東京天文台に移管)が実験用として(A1 30W.呼出符号JGT)使用していたが,終戦後聯合軍司令部の指令によって,使用周波数が全面的に再指定された際,新周波数の指定がないまま1946年(昭和21) 8月13日をもって廃止した。しかし,終戦後国分寺の電波物理研究所との有線電話が回復せず,同所と電離層共同研究連絡のために無線通信の必要が生じ,東京天文台として,前記の廃止した無線設備による無線局の開設を申請し,1946年11月 5日より A1 9175KC,呼出符号JX9Gで運用を開始,共同研究期間中の昭和24年10月31日まで太陽の資料を国分寺へ送信していた。
 昭和24年(1949)になって乗鞍にコロナ観測所が建設され,三鷹との間に無線連絡の必要が生じ,国分寺との連絡に使用していた上記の設備をそのまま利用して,乗鞍・三鷹間の通信を開始することとなり,昭和24年12月14日より,A1 3550KC, A1 9175KC(この周波数は最初の1年は使用せず)呼出符号JG2Jで運用を開始した,なおこの運用については経度研究課全員が協力した。

2)乗鞍固定局の新設
 観測所の外部との連絡は無線通信による方法以外に無いことから,無線局を新設することになった。その準備としての感度試験には経度研究課が協力することになり,昭和24年8月高山測候所夏季乗鞍気象観測所の一隅を借り受け渋谷五郎が無線装置やアンテナ等の設置に当った。この際同所に至る道らしい道もなく,器材運搬には想像以上の労苦があった。その後河野節夫が引継ぎ仮設備による感度試験を行った結果良好であった。これより 8月20日無線局の新設許可があったが,設置場所となるコロナ観測所の建設が遅れ,信越電波監理局による新設検査が降雪期に入り検査官の登山不可能になることを心配し9月末日登山し無線機の外観のみ検査を受け,周波数については観測所に設置後測定検査を受けることにした。河野が次期の虎尾三春に引継ぐ頃,漸く建設工事が終り,1KVA.2HP発動発電気(友野製)を搬入,無線設備の設置準備にとりかかることが出来た。
12月に入って周波数測定試験を行った結果合格したので12月14日より正式に乗鞍固定局として運用を開始した。
  最初に使用した主な機器は次のものである。
A1 50W 送信機 (三田無線製)      1
  通信業務用小型受信機(東芝製)     1
  木枠組, ダイポールアンテナ     1  (木枠組は着氷によって空中線が
1KVA 2HP ガソリン発動発電気(友野製) 2     切断しないよう配慮した)
  蓄 電 池 96AH 12V      1
  セレン充電器      1

 乗鞍における初年度の運用について
  最初は使用周波数A1 3550KC.呼出符号JG3Eで毎日1回定時で16時20分から行ったが,電信だけのため通信士が事故でもあって,モールス符号の読めない者だけになった場合の運用上の不安があった。それに諸設備の不完全と未経験による山頂勤務には予期しない多大の苦労はあったが,これらにまさる精神力と勤務者の団結によって無事乗り越した。
  運用上,欠かせないものの中にその電源を得ることであるが,これに使用された1KVA 2HPガソリン発動発電機の始動並びに保守に関しては通常考えられないような労力が要求された。それは建物は狭く,その入口の北側にあるエンジン室は冷込みが甚だしく,普通のモビールでは固くなって始動しないため12月25日より冷凍機油を使用して全員協力して発電した。又ガソリンの搬入が降雪のため 2km離れた山荘止まりとなってしまった関係上,折角発電しても手持分が少なく,1日の発電時間は 2~ 3時間で停止しなければならなかった。又山荘前のドラム缶は戸外に置いてあった為に雪中から堀り出し,小出し缶に移し,背負って運搬するなど人知れぬ苦労が多かった。
  なお,交替時の乗物としては,島々よりバスが上高地又は白骨行しかなかったので,前川渡で下車し,それから歩かねばならなかった,従って大野川の福島屋が基地となり,荷物等を整理して登山装備の上,鈴蘭小屋まで歩いて一泊した。このような関係上鈴蘭には業務用小型受信機を設備し(12月12日専用受信機の設備許可さる)翌日の天候を聞いたり,乗鞍・三鷹間の通信を傍受して登山の安全を計った。