§12 建物

 乗鞍山頂に常住を条件とした観測所を作るとしても,海抜3000米の高山であり,日本では当時中央気象台所属の富士山測候所があるのみで,他に参考となるようなものはなかった,また富士山は余裕のある時代に年月をかけて造られたものであり,敗戦間もないすべてに欠乏した時代に,充分な建物が出来るかどうか疑問とされた。
 建設の設計・施行・管理を担当した東京大学営繕課では,柘植課長を陣頭に防寒・防風・防雪それに防雷とあらゆる角度から検討が加えられたが,資材等の搬入には3km に及ぶ岩石の斜面があり,それらしい道もないことから,何かと利用出来得るものは現地調達するということになり,木材・セメント・鉄骨・鉄板・銅板・ガラスなどを除く,間地石・砂利・砂・水は現地産として計画が進められた。それでも不消池の砂(泥?)と水は当時の砂糖と酒に等しい代価となり,山上の大きい岩は大方砕いて間地石となって積み上げられた。強風雪に耐え得るよう屋根・壁面は 28#の厚鉄板を使って瓦棒葺きとされたが,その瓦棒も地上の1/2 の間隔でハゼ掛けも二重に処理された。ドームはカーブに加工された鉄骨を組合せ,板を張った上に厚い銅板を葺き,暴風によって浮き上らないようフックと締付けハンドルによって固定され,加えて防雷のための接地がとられた。スリット扉は片開きで極力開口巾をつめ隙間のないようゴム板で密着させ,開扉時の扉は戸袋に収納した。また回転部と躯体との間隙も二重にゴム板によっての風や雪などの吹込みを防ぐ方法がとられた。こうした最初の建物が悪天候との戦いによって完成したのが10月中旬,雪の降り積む中で完成を待たず越冬物資や機材が搬入された。なお,立派な煙突はあっても,肝腎のストーブは鉄板を曲げた薪用(しかも借りもの)といった有様で,その中にレンガを組んでボルトを並べ,石炭とコークスを燃して暖をとった。本物の石炭ストーブが入ったのは12月も中旬になってからのことである。
 建物の細かい部分については,体験や実験の繰返しにもとづいて改良が加えられ,完壁なものとなるまでには可成りのう余曲折を辿り,それなりに年を消化することとなった。ドームスカート部やスリット開口部と扉の圧着には並々ならぬ苦労があり,中でも36年間の歳月を経た今日いまだに解決のついていないドームの着氷に対する防御の問題がある。ドームの着氷の防止については,屋根面に油・エチレングリコールや特殊な塗料を塗布する実験を重ね,又屋根そのものを二重構造としてその中に温風を吹き込むことや,ロードヒーティングに相当するいろいろなタイプの温熱板を取りつける方法での実験が試みられたが,いずれも合格点を取るまでにはいたらず,北大低温研や各方面の実行方法も大同小異であった。
 木造の頃には壁構造について強風と保温,それに採光面積や,暖房の方法と煙突の形態,鉄筋コンクリートに変ってからは漏水と結露などについて相当つっこんだ議論がなされ,その結果としては外観の見掛けよりも,自然に対応したものに改められた。  
 山上で生活をするについての第一条件は水の問題である。当初は天与の雨を桶に貯え,不足時は下の池まで一斗缶を背負っての汲上げや,雪を溶してやっと水にありつくなど,忍耐につぐ忍耐であった,都会生活に馴れた身体には我慢のならない苦痛であったことと思う。朝起きてカランをひねり応分の水で顔を洗う習慣そのものが通じる世界ではなく,或る時など『何処で顔を洗うのですか』と問われて『水なら外に沢山あるからザルに取って来な』と言ったこともあった。また或時は貯水桶から勝手に汲み出して洗面の上,サッと外に水を撒き『アー気分がいいですな』 には口が塞がらなかったこともあった。 決して憎める所作ではないが,理解して欲しいという心である。いずれにしろ水そのものが生活を左右することは論を待たないことで,カランをひねれば水が出るようになんとかしたいと望み,もう少し進んでお湯が出るようにしたいと夢を描きつつ大きい水槽の出来ることを願った。それは屋内水槽に始まり昭和39年には屋外に60tのA水槽が出来,頂上権現池よりのサイホンと揚水モ-タ-で観測所まで水が上げられるようになり,水カランが付き,昭和45年に至って60t水槽(B)が加わり,念願の水・湯両方のカランが付いた。その時の気持は言うに及ぶまい。なお,昭和48年にはA水槽に40tが増設され,さらに昭和54年には80tのC水槽が増設され,合計 240tとなり貯水量もこれで当分は心配ないこととなった。
観測施設・発電施設・居住施設,加えて貯水施設が整ったところで,初期に建てられた一部施設に改善の必要が出て来てはいるが,年々少ない予算をやりくりして継ぎ足的に建てられた建物であるだけに,一部分の改築のみでは収まりの悪い部分が派生することはいなめない事実でもある。36年間の風雪と寒冷に耐えた小ドームも肉落ちて骨材が露呈して来たが,これが復旧にいまだ手をつけられないでいる。

昭和24年の建物見取り図
現在の建物見取り図