§6 乗鞍コロナ観測所の環境について

○乗鞍コロナ観測所の環境について
 乗鞍コロナ観測所の環境を記すには,観測所の占める位置とこれを取りまく地形,道路そして年の経過に伴って変って来た諸般の状況,そして観光登山客等を考慮に入れなければならない。乗鞍岳に日食時外の常時太陽コロナ観測所(ごく最初はこうした名称で呼んだこともある)を創設するにあたって,昭和23年から地元に対して援助協力を要請し,国に対して盛んな働きかけが行われた。
 国としてはあまり金のかからない方法の一つとして,戦時中に軍によって建てられた航空研究所の跡を再利用してはとの意見もあった。当時は観光の為の車(定められたバスが主体)の台数も非常に少なく,走行によって巻き上る塵芥も一時的なものであり,下山したあとは静かで長閑な山であったので,この研究所跡を利用して居住棟と研究棟に改造し,観測室のみを研究所跡のすぐ上にある魔王岳に作る案が有力であった。ところが高山市では,この航空研究所の建物の払い下げを受けてホテルを造り,観光客の誘致を計りたいとの計画をもち,年々観光登山客の倍増を計る意向をもっていることが表面化して来た。年間を通して滞在し,観測研究を続ける上で必要な条件としては,観測を行う上での開けた眺望が得られること,塵芥の発生がなくこれをおさえる環境であること,観測者の交代のための登下山の行動が安全に行えること,生活上特に水が充分に得られること,また気象条件として優れているかなど,の点について比較検討を加えながら討論が繰返された。その結果,畳平の跡地利用の面では,過去に研究所の交代者が幾度となく鶴ヶ池付近で『環状彷徨』(リングワンダリング を起して居り,濃霧の通り路で強い吹越気流のある所でもあり,また上り坂の観光気運の状況からみて,将来車や観光登山客による影響が生ずることもあるのではないかと懸念された。従って,生活面が便利でも観測環境は決して充分とは言えないと断念し,他に求めることとなったoRゥ動車道路に近い桔梗ヶ原や大丹生岳,四ツ岳方面は,夏場は非常に便利であるが,冬季は中間に中継所的な役割をもつ山小屋がなく,気象的には畳平よりむしろ悪いことから道路沿いを諦め,南の富士見岳,不動岳鞍部,摩利支天岳,室堂ヶ原,高天ヶ原といった地域を細かく踏査した結果,観測上で最も良い所となると摩利支天岳ということになり,ここならば観光事業と将来ともに一線を画することが出来ると信じられた。当時,畳平から頂上方面にかけての登山路は,畳平から不消ヶ池に上り,摩利支天岳東崖を横這いして肩の小屋に出るものと,畳平から不動岳の岩壁を登って里見岳との鞍部に出て,不動岳南中腹をまいて室堂ヶ原に出るもので,摩利支天岳に通じる道はなかった。従って観測所の建設に当っては,不消ヶ池より這松の間をぬって,敷き並べた石の急坂を,不消ヶ池の水や砂を背負って運び,木材,鉄骨材,セメントなどの資材は,肩の小屋への分岐点から現在の自動車道路の上の屋根下をトラバースして荷上げした。 又,翌昭和25年にはこの臨時に造った石道を使って10cmコロナグラフ(日本光学製)も人の背によって上げられた。
 こうした状況であったために,観測所を設置することに先がけて,岐阜・長野両県に対して摩利支天岳に至る道路の新設と,電力の供給に必要な工事等についての援助協力要請がなされ,その後も度々要請された。しかし電力線の引込みについては,山岳地帯は地下ケーブルとしなければならないことと,これにかかる経費が当時で億単位の大きなもので,止むなく自家発電装置によることとなった。従って昭和28年には大型の発動発電機が搬入され,これに先立って昭和27年にトラックがやっと通れる程の大学専用道路が造られ,長野県も分岐点から肩の小屋に至る道路を旧登山道下に計画し作業に取り掛った。
 昭和28年には現宇宙線研究所乗鞍観測所の前身にあたる朝日小屋(朝日科学奨励基金による)が建設されたが,この時はまだ分岐点より先は旧道利用で,物資の運搬は相当困難であった。
 昭和29年コロナ観測所では固定式長焦点望遠鏡(紅炎早取撮影装置・日本光学製)の観測室を建設,昭和30年には機械の搬入を予定,一方共同利用の宇宙線観測所の建設もあり,運搬道路の改修造成が行われた。其の後,前の不消ヶ池を通る登山道は昭和39年の水利用問題を境として不消ヶ池の水の保存確保と,植物保護を理由として高山営林署によって閉鎖され,続いて畳平から大学専用道路途中に通じていた仮設登山路も閉じられて大学専用道路に一般登山客が流れる仕組となった。他方,昭和23年当時の平湯峠からの自動車道路は,戦時中に航空研究所への資材を運ぶ為に造成されたもので,自然石を巧に利用した巾員3.6m,処によっては3mしかなくバス1台が左右に揺れながら通るのに気を使う道であった。観光登山バスの運行は,居ながらにして3,000m級の高山に登れるとのキャッチフレーズで売れ出し脚光を浴びた。しかし,客があるからといって前述の道路状況では,次々と発車させても擦れ違いの出来るものではなく,待避所的な拡巾工事を年々延長してまたたく間に二車線に変容した。それでも当時のバス能力からは,お互いに援け合いながらの運行として数台のバスが連なって走り,山頂はバスの下山によって時々大潮の引いた後のような静けさを取り戻した。始めは高山市の濃飛乗合自動車株式会社のバスとタクシーに限られていたこの道路も,次第と他府県の観光バスや自家用車が加わるようになって,山上は喧騒を極めるようになった。最近は一日中切れ間なく観光登山客が押しかける有様となり,この登山自動車道もコロナスカイラインからアルプス・スカイラインと名称を変えて有料となった。この道路の他に信州側を登って鶴ヶ池に接続した長野県道は無料の上に,夏季遅くまで残雪を利用してスキーを楽しめることから利用車も多く,最盛期には道路上が車で埋る有様となった。
 昭和26年観光登山バスの増便と共に,コロナ観測所は格好な観光名所となり,見学や説明を求められる回数も増え,所長自ら説明役に立って観測所の使命を説いた。見学の要求に対して,外観を見ることで納得してもらう一つの方法として,見学のしおりをガリ版刷りで作り,観測環境保持についてのお願い事項を加えて広く配布した。観測所を訪れた上で,四囲の景観を眺めながら食事を摂り,弁当殻や空瓶・缶を放置して帰る者もあって,蝿の発生や風によって舞い上る塵芥もあり,他方,目の届かないうちに構内に入って観測の妨害をする者が出るに及んで,観測所の環境清浄化保持についての協力を広く関係機関に要請し,観測所に通じる道路入口三ヶ所に木柵とお願い事項を付した説明板を立て,摩利支天岳周囲に立入りお断りの木柱を設けた。 これに対して地元でも,観光地として乗鞍全域についての清浄化と,車内及びスピーカーによる啓蒙の実際行動に入った,こうした活動が地元の人々によって支えられ,今日に定着して来たことは非常に喜ばしいことである。しかし,この一連の観測環境清浄化への協力要請にもかかわらず,昭和30年には岐阜県が室堂ヶ原に一大苑地(無料休憩所・便所を含む)を造り,バスの乗入れを計画して厚生省(国立公園部)の認可を取り付け,朝日岳中腹に新しい遊歩道の建設にかかった。
一方長野県は鈴蘭より乗鞍への計画道路案を,大雪渓より肩の小屋に直接上げることとした。コロナ観測所としては,このままでは両県の観光事業の渦中に没入し,観測が不可能となることから,「観測所を中心として半径1km円内(畳平の一部を除く)には,施設の増設V設並びに道路の新設を認めない」として強力な反対運動を行った。(当時はまだ新しい事業を行う前に,関係者間の事前協議が行われず,ことが起きて始めて知るという状態にあった。)これに対し信州側から,大学道路を通って肩の小屋への一般車の乗入れと,バス回送について申し入れて来たが,観測所としてはお断りする一方,岐阜県の室堂ヶ原の苑地計画を取り下げてもらうよう働きかけを行った結果,中止することとなった。その条件の中にはコロナ観測所の主張する,「コロナ観測所を中心として半径1kmの円内(一部畳平の既設部を除く)には,新しい施設や道路を造らない」,ということの確認が含まれ,急成長したこの山の清浄化と登山者に対するモラルの啓蒙に協力するための対策協議会を発足させた。
 昭和32年信州側の登山自動車道は,あくまでも大雪渓を通って肩の小屋に入ることで,大雪渓上の這松帯の伐採を行つた。この件が明らかとなって,天文台としては関係機関に対して反対の為の働きかけを行い,日本自然保護協会では,評議会全員一致で決議の上陳情活動を起し,岐阜県側も,昭和31年の苑地取り下げ時の状況に基づいて,昭和32年 5月に厚生省国立公園より発表された総合開発計画により,位山荘より鶴ヶ池に通すよう陳情を行った。また運輸に関する新聞も,天文台の主張をバックアップする記事を掲載した。その結果,昭和35年に至って厚生省国立公園部の裁定により,大雪渓より富士見岳の中腹を巻いて鶴ヶ池に通すこととなり,コロナ観測所の主張した1km円内に一部割込む形となったが了承せざるを得ないこととなった。その後厚生大臣より文部大臣に対して協議が寄せられ,東京大学総長名で,今後に対する希望条件を付して回答された。 岐阜県側もこの件について了承した。
 その後当分静かであった観光事業に関する問題も,10年の月日が過ぎた昭和42年 5月,岐阜県の計画する,「アルプスXカイライン構想」によって破られた。これは始め高山市より丸黒山,千町ヶ原を経て御岳山の中腹を巻き中津川方面に通じる幹線と,千町ヶ原より大丹生ヶ池を通って烏帽子岳に出て,既設の登山車道に接続しようとするものであった。この計画も次第と変り,御岳方面を取り止めて乗鞍一本槍となり,室堂ヶ原を経由して鶴ヶ池に接続することとなった。その後の天文台と岐阜県との交渉及び経過については,後述の「アルプス・スカイラインに関する問題」に詳細を譲るが,再三に渡って方向を変えて実現しようとする岐阜県は,知事の政治生命をかけるとの発言もあり,天文台としてはあくまでも「観測所中心とした1km円内には不可」とした基本路線をもって,前回同様関係各機関に要請,陳情を行った。日本自然公園審議会ではこの岐阜県の建設計画案に対して,国立公園内の自然保護と開発利用の観点から審議が重ねられ,乗鞍岳の勝れた自然景観の保護と調和のとれた理想的な車道計画とすべきであり,学術調査を行う必要があると指導を行った。これによって岐阜県より自然保護協会に学術調査を依頼し,問題点を洗い出すこととなった。
 調査結果は,岐阜県の計画した車道の建設では自然保護の点で問題があり,既設の車道を二車線の完全舗装道路に改修し有料とする見解がなされた。 これにもとづいて,昭和48年に到って巨費を投じた岐阜県アルプス・スカイライン(後の乗鞍スカイライン)が完成した。