§4 観測関係

 我が国において,コロナグラフによる太陽コロナの観測は昭和22年に始まるが,昭和24年乗鞍山頂に観測所が出来て越年観測が行われるまでを試験観測とし,昭和25年以降を本観測として年度順に記録を纏めた。観測機器は手作りの試作第1号機より第4号機までを試験観測機器として整理した。

イ.試験観測(乗鞍に観測所が出来るまで)
 我が国における日食時外の太陽コロナの観測は,昭和14年(西暦1939年)に野附誠夫によってコロナグラフの作製計画が立案されたが,第二次世界大戦の拡大に伴って断念せざるを得なかった。
 大戦後の昭和21年(1946)暮れになって再度計画するところとなり,口径16cm・焦点距離145cmの対物単レンズと,口径 5cm・焦点距離145cmの視野レンズが試作され性能テストが行われ,昭和22年(1947) 1月30日の東京天文台談話会において結果が発表された。 2月より実験用のコロナグラフ第1号機(全木製)が素人細工によって試作され, 9月より長野県・科山八子ヶ峰(1680m)において,望遠鏡内の散光量の測定や鏡筒内の絞りの位置についての実験観測が行われた。しかし,この第一次試験観測では,遮光ミラーの取付金枠が融け落ち木枠が焦げ,架台とした木製の経緯儀では太陽の追尾が困難を極め,加えて 9月14~15日に来襲したカスリーン台風によって作業天幕に壊滅的な打撃を受けるといった有様であった。 そして帰京後,ただちにシュタインハイル赤道儀を改造し,口径12cmの平凸単レンズ・焦点距離 150cmを使ったコロナグラフ試作第2号機を作り,11月下旬より長野県渋高原(1800m)において第二次試験観測を行い,遮光板による太陽紅炎の観測と,太陽周辺の空の散乱光を測定することによって,基礎的な資料を得るための実験観測を行った。
 昭和23年(1948)に入って,試作第1号・2号によって得られた結果について数量的な検討を加え,五藤光学の6吋赤道儀を改造して光学系の組入れ,オッカルティングディスク以後を取り外して調整可能とし,対物レンズ前に凹面鏡の絞りを取り付け,低分散のヒルガー分光器を使用することとしてコロナグラフ第3号機の製作に入った。
 5月になって,北アルプス乗鞍岳に高山市から登山バスが始めて運行されることを新聞報道で知り, 6月上旬残雪の乗鞍岳の踏査を行い,準備を整えて 7月下旬より乗鞍・畳平に於て第三次試験観測を行った。その結果, 8月12日に至って野附誠夫がヒルガー分光器によって太陽コロナの5303Å輝線を確認,翌13日には太陽コロナ5303Åと6374Å輝線を観測員全員が確認,日本における日食時外の太陽コロナ観測史上記念すべき日となった。
さらに 8月29日にはこれらのスペクトル撮影にも成功した。
 この第三次試験観測行は,今迄とは違って生活面での条件が厳しく宿舎も食事も自分の手によって作らなければならなかったことで,旧陸軍の航空研究所(現国鉄乗鞍山荘の一部)の廃屋の通路の両端を板囲いで間仕切り,ガラス戸のなくなった窓枠を板で塞ぎ,その一部分にキャビネ版位のガラス板をはめ込んだ極めて小さな明りとりを設け,通路の床には板戸を拾い集めて敷き,キャンバスの簡易組立ベットに毛布といった非常に粗末なもので,石油ランプと炭火コンロによる忍耐の自炊生活が行われた。このような労苦も観測の成功といった喜びによって報われた感がある。
 永続的なコロナ観測所を造りたいという希望も,この観測の成功によって一歩前進することとなり,若しこの乗鞍に造るとした場合には何処が良いかということになった。最初は,登山バス終点の畳平周辺でという意見もあり,又航空研究所の跡地利用を考えてはとの話も出たが,近い将来観光のために登山する車や観光客の急増が予測されること,冬季に於ける交代等が気象的条件によって不安であることから,先づ自動車道路沿いの近くは除外し,むしろ観光とは一線を画して頂上寄りにしかるべき場所を選んだ方が,将来共良いのではないだろうかということで,適地と考えられる峰や台地を精力的に踏査した。 候補地として上げられた室堂ヶ原,高天ヶ原,摩利支天岳,不動岳鞍部そして富士見岳南中腹の地点における観測環境,交通,気象,生活などの諸条件の良い所となると一長一短があった。室堂ヶ原は冷泉小屋,位山荘そして肩の小屋を結ぶ冬季ルートに最も近く,気象,生活条件も及第とされたが,冬季の太陽高度が朝日岳の稜線からわずかしか離れず,風によって吹き上る雪煙に妨げられるといった致命的なことで諦めざるを得なかった。残された地点の中で日の出から日没まで太陽を追いかけることが出来ること,周囲の展望に優れ這松の育成が良いこと,冬場のルートに近く,他が霧に包まれてもこの峰はかかりにくいということで摩利支天岳が建設予定地と内定した。しかし,建設を始めとする物資の搬入や生活用水の確保といった点では,当座相当な困難を覚悟しなければならなく,出来るだけ近い将来に道路の建設と池からの水をポンプアップする必要があるとの付帯事項がついた。
 同年11月中旬より第二次試験観測を行った渋高原において,乗鞍と比較するための第四次試験観測を行った。しかしその結果は乗鞍と比べて散乱光によって空が明るく(望遠鏡を通して浮遊塵芥が雨の降るように見える),紅炎を見ることは出来たが太陽コロナの5303Å輝線を見ることは出来なかった。 そして帰路,八ヶ岳,編笠山に適地を求めて調査を行ったが,乗鞍より条件の優れた候補地を見出すことは出来なかった。
 明けて昭和24年(1949) 3月中旬岐阜側平湯温泉をベースとして冬季の乗鞍岳の現地調査に赴いたが,豪雪と悪天候にさまたげられて大丹生岳で引返さざるを得なかった。その後は 4月下旬・6月上旬に現地の調査を行い,6月下旬に建設予定地となった摩利支天岳の現地測量と,建設に必要な諸条件の調査が行われた, 7月に入り,悪天候続きの中で鶴ヶ池々畔を基地として観測所建設が摩利支天岳で進められる一方, 8月上旬より高山測候所夏季乗鞍気象観測所(室堂ヶ原)をベースとして第五次試験観測が行われ,前年を凌ぐ太陽コロナの5303Å輝線の明瞭な写真撮影に成功した。 又観測所が出来た折の通信手段の方法として,東京との無線通信の試験を行い良好な成果を得た。 そして10月初旬雪の季節を迎える頃となって越年を目的とした観測所が竣工し,人の背による越冬物資の搬入と整理に追われる日が続き,10月15日より新生活に入った。
 過ぎ去った試験観測行には,常に地元の人々の協力と援助があったことで,特に第一次の観測行に於ては,食糧の欠乏によって観測を中止しなければならない状態にいたった折に,地元の方々が気持良く援助の手を差伸べてくれたことによって,観測が続行出来たこと,又第三次では濃飛乗合自動車(高山)はバスの座席を取除いて機材の運搬を無償で引受けてくれたことなどである。これは,敗戦によって不自由となった衣食住と,疲弊しきった国民の心に,平和日本の先駆けとして現われた太陽コロナの観測,そして科学の殿堂が出来るという明るい話題を提供したことにもよると思うものである。

1939(S.14)
       対物レンズ(小原光学・両凸)を用意,コロナグラフの作製計画を
       もったが,戦争のため中断する

1946(S.21)秋
       塔望遠鏡室を使ってコロナグラフの対物レンズ等の実験を行う
      (野附・大沢・末元・清水(一)・秦)
      *オリエンタル1200乾板を使用,バックグラウンドがやっと感光する程度
       使用レンズ・対物(L1) φ:160mm・f:1450mm(単レンズ)
            ・視野(L2) φ: 50mm・f: 145mm

1947(S.22)Jan.30.
       対物レンズ等のテストの結果
       散光量は光源の約10-5程度であることを
       東京天文台談話会に於て発表した

1947(S.22)Feb. 
       東京天文台工場において,経緯儀式実験用コロナグラフ第1号機の
       試作にとりかかる
      (野附・千場・清水(一)・小野・大江)

1947(S.22)Sept.06~Oct.03
       第一次試験観測行
       長野県・蓼科山・蛸内 海抜:1,680m
      (野附・清水(一)・小野・大江・岡田)
       結果:遮光ミラー金具の融け落ち・木枠焦げる
       経緯儀台に懲りる
       台風(カスリーン)による被害大,天幕破損

1947(S.22)Oct.
       コロナグラフ試作第2号機の製作

1947(S.22)Nov.24~Dec.01 
       第二次試験観測行  長野県・渋高原  海抜:1800m
      (野附・清水(一)・小野・大江)
       結果:空が非常に明るくコロナは見えない。
プロミネンスも見えず
          ガイド困難,光学系の調整不完全,直接撮影は無理

1948(S.23)Mar.~Jul.10
       コロナグラフ試作第3号機の製作 

1948(S.23)May 
       コロナグラフ試作第3号機の製作が行われていたある日,乗鞍岳に登山
       バスが運行されることを東京毎日新聞で知る
     Jun. 
       乗鞍岳を第三次の試験観測予定地とし,現地調査のため小野・三輪を
       高山市に派遣,高山市の紹介により森下(高山測候所)の協力を得る
     Jun.7~8 
       現地乗鞍岳の調査(小野・森下)
     Jul.16  
       機材の発送

1948(S.23)Jul.24~Sept.03 
       第三次試験観測行
       岐阜県・乗鞍岳・畳平(元航空研究所跡)海抜:2,740m
      (野附・清水(一)・小野・大江・大沢・千場・森下・萩野)
     Aug.12 
       夕刻ヒルガー分光器のスリット方向を太陽半径方向に対して直角
       にしてコロナ5303Åを確認(野附)
     Aug.13 
       前日の方法で5303Å及び6374Åを確認(全員)
     Aug.29 
       スペクトル撮影を行う
      ・なお,観測所建設のための候補地の踏査を行う
      (魔王岳・桔梗ヶ原・富士見岳・不動岳・摩利支天岳・室堂ヶ原)

1948(S.23)Sept.~Oct. 
       コロナグラフ試作第3号機の改造

1948(S.23)Nov.13~Dec.06 
       第四次試験観測行  
       長野県・渋高原(第二次と同じ場所)
      (野附・清水(一)・小野・大江・千場・名取)
       結果:乗鞍と比べて空が非常に明るい
          浮遊塵が非常に多く,雨が降るようだ
          プロミネンスは見えるが,コロナ5303Åは見えない
          従って,乗鞍岳が決定的となる

1949(S.24)Mar.09~Mar.17
       冬季・乗鞍岳の現地調査(野附・清水(一)・森下)
       飛騨側平湯温泉を拠点として登山,天候に阻まれ大丹生岳稜線より引返す
     Apr.26~May 01 
       冬季・乗鞍岳の現地調査(森下)
       飛騨側より登山,現地調査を行い,大野川経由松本に下山
       松本に於て,野附・小松と落ち合い報告
      ◎建設候補地として摩利支天岳に決定
     Jun.04.05 
       春季・乗鞍岳の現地調査(森下)
     Jun.27~Jul.01 
       建設地の現地測量と調査打ち合せ
       信州側鈴蘭より登山,飛騨側平湯温泉に下山
      (天文台:野附・小松・東大:山崎・内田)
      (日産土木:中島部長外2名 案内:森下・福島)

1949(S.24)  
       コロナグラフ試作第4号機の製作 

1949(S.24)Aug.07~Aug.31 
       第五次試験観測行  
       岐阜県・乗鞍岳・室堂ヶ原  海抜:2,780m
       高山測候所・乗鞍岳気象観測所を拠点として室堂ヶ原で行う
      (野附・千場・清水(一)・野島・河野・渋谷・畑中・森下)
       結果:Aug.31・ 5303Åのコロナ輝線のはっきりした写真を撮影する
     Jul.18~Oct.11 
       摩利支天岳山頂に越年観測所を建設
      (9/26一応完成後手直し)
     Oct.15   
       実生活に入る 
     Oct.17~29
       コロナグラフ試作第4号機の搬入組立と調整
     Nov.1 
       試験観測に入る
     Nov.07~10 
       コロナ5303Åのスペクトル撮影に成功