§2 総論(沿革)
わが国に於ける日食時外に太陽コロナの観測をしようとする計画は,最初昭和14年(1939)にもたれたが,第2次世界大戦によって中断し,諸外国に先を越された形となった。戦後,昭和21年(1946)より,野附誠夫を旗頭として,試作コロナグラフの製作と,試験観測(7.観測関係参照)を重ねた結果,昭和23年 8月乗鞍岳に於て,初めて日食時外に太陽コロナの緑色輝線(波長 5303Å)の検出に成功し,コロナ観測所として実現する運びとなった。
この乗鞍岳は,日本北アルプスの中では最も南に位置し,比較的気象条件に恵まれているとはいえ,標高3,000mの山頂における気圧は約700mbで,冬季の最低気温は氷点下30瀉,風速は毎秒30~40m と北西の季節風が卓越する厳しい環境である。こうした条件に適応した建物を造るための設計・施工管理については,東京大学営繕課(現施設部)の苦心するところとなり,建設に必要な資材は,自動車道路の終点の畳平から,高度差130m・距離約3km の岩肌の仮設道を,蟻が這うようにして人力で運搬され,現地でととのえられる石・砂・水は周辺の尾根や不消ヶ池より荷揚げされた。この運搬に当った屈強な人夫が一日に運び得た量は,セメント1袋(50kg)5往復,砂(石油箱 約70kg)4往復,水(石油缶2個40kg)4往復といった有様であった。この様な悪条件の下に昭和24年10月中旬に完成した建物は,直径4.5mのドームをもった観測室(約 5坪,階下は資材倉庫)と,無線送受信機・電源電池・1KVA発動発電機2台・寝台2段4床・便所・暗室・炊事場を収容する9坪の小舎で地下室は石炭・木炭庫に,天井裏は食糧庫として利用され,この非常に狭い設備のなかで最初の越冬試験観測が実施された。当時の通信は,周波数3550KHz で,毎日定時(16時20分より)にモールス信号で行われた。発電機の使用も一日に 2時間程度で,燃料(ガソリン)が少ないために制限され,主として通信用の蓄電池の充電用にあてられ,照明は一世代前と同じ石油ランプが使用された。観測所勤務者の交替(滞在勤務約1ヶ月間)にあたっては,島々より前川渡までバスを利用したが,冬季は雪崩などの為に奈川渡や稲核で運行が打切りとなることもあり,その後の道程は,一歩一歩徒歩によって踏破しなければならないことで,天候や条件に恵まれても,東京を発って四日目にようやく観測所に到着するという状態であった。
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昭和25年(1950),口径12cm(焦点距離150cm)の対物単レンズと,口径5cm(焦点距離24cm)の視野レンズを備えた新しいコロナグラフ(日本光学製)が完成し,9月に観測所に設置された。また浴室や休憩室など約16坪が増築されて,生活環境が大きく改善されるとともに,三鷹との交信には無線電話を利用することが可能となった。7月26日には,畳平のバス終点広場で「乗鞍岳コロナ観測所開所記念式典」が行われ,東京天文台として最初の附属施設が誕生し野附誠夫が初代所長となった。その後,年を追って観測装置の充実と,居住環境の改善が進められた。
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昭和26年(1951)からは,乗鞍におけるコロナ緑色輝線の強度測定の結果が,国際天文学連合の太陽活動に関する観測資料誌 Quarterly Bulletin on Solar Activityに発表されるようになり,ヨーロッパ・アメリカと並んで鼎の一脚の役目を果すこととなった。昭和28年(1953)には,タリウム・ランプを利用する輝度強度測光法が開発され,測定精度の向上に役立つこととなった。又 15KVA発動発電機(ディーゼル・エンジン)が配備された。
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昭和30年(1955)には,リオ・フィルターによる,5303Åコロナ像の撮影装置の完成と撮影が行われ,紅炎早取写真撮影装置(Hα単色像・日本光学製)が取付けられた。
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昭和31年(1956)11月には,宇宙線観測所と共同で利用する鈴蘭連絡所(所属は宇宙線観測所)が完成し,開所記念式を行った。
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昭和32年(1957)には,四輪駆動の官用車が配備され,観測所運営に機動性を増した。
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昭和34年(1959),乗鞍コロナ観測所の開所十周年にあたって, 9月24日には”コロナ及彩層”に関するシンポジウムが観測所で開かれ,翌25日には,記念式典が畳平・銀嶺荘で行われた。又 50KVA発動発電機(ディーゼル・エンジン)を導入した。
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昭和35年(1960)日食時外における太陽コロナの観測立案と試験観測に始まり,乗鞍コロナ観測所を建設,観測研究の地歩を固めた野附誠夫が定年により退官し,長沢進午が所長を引継だ。
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昭和36年(1961),コロナ連続光の微細な偏光を光電的に測定して,コロナ内電子密度分布に関する情報を取得するK-コロナメーター(日本光学製)が完成した。
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昭和39年(1964) 4月,国立学校設置法施行規則の改正により,観測所は天文台の附属施設となり,長沢進午が施設長に就任した。
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昭和40年(1965)10月21日,コロナグラフによって,太陽に接近する池谷・関彗星の写真撮影に成功したが,スペクトルを得るには至らなかった。
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観測所の開設以来,建物・電源設備や上水槽などが次第と改善されてきたが,昭和41年(1966)の冬より松本電報電話局との間を無線で結ぶ一般加入電話が開通し,また宇宙線観測所と共同使用の雪上車が配備されて,生活環境は大きく向上した。
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昭和43年(1968),昭和24年以来20年にわたるコロナ輝線観測結果の分析と,電波・紫外線・X線などの新しい観測手段による太陽研究の急速な進歩に合せて,観測所の将来計画を検討した結果,一秒角程度の高い空間解像力を持ち,0.5Å/mm以上の大きな分散能を持つ分光器を備えたコロナグラフが,今後の研究の遂行上不可欠であるとの結論を得た。それに基づいて数年にわたり準備をすすめてきたが,昭和43年度より 4年計画で予算が認められた。
この計画にともない,昭和44年(1969)より観測所付帯施設の拡充が行われ,150KVAディーゼル発電機2基50t油槽60t水槽の新設と配電室の改修d機室及観測室(ドーム直径12m )V営工事が施工された。
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昭和45年(1970)観測所の整備と,25cmクーデ型コロナグラフの建設を推進した長沢進午が定年により退官,守山史生が施設長を引継いた。
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昭和46年(1971)秋クーデ焦点をもつ口径25cmのコロナグラフ(日本光学製)が,12mドーム内に据付けられ,細部にわたる性能テストが実施され,昭和47年(1972)も引き続いて行われた。同年10月より本格的な観測が,5303Å及び6374Å輝線によるコロナ活動域の観測,ヘリウム輝線及び高次バルマー系列輝線による紅炎の観測,Hα線や電離カルシュウムのH・K線による彩層スピキュ-ルの観測,高次バルマ-領域における彩層活動域の観測,フレアの分光観測等について始められた。
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昭和50年(1975)より,25cmクーデ型コロナグラフの第1焦点(遮光円板)の位置に偏光計を装着し,写真測光によって光球の偏光を検出し,磁場分布を導く試みが,フランス・パリ天文台太陽物理学部門の M.Semel と共同で始められた。
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昭和51年(1976)から,文部省科学研究費補助金(試験研究費,代表 清水一郎)をうけて,日本光学と共同で非球面対物レンズの開発を行った。これは10cmコロナグラフの空間分解能を向上させるためと,表面研磨精度の高い非球面レンズの製作技術を取得するためのもので,翌昭和52年(1977)現在使用中の対物レンズと比較しながら,解像力・散乱光量についての検定を行い,満足すべき結果を確かめた。
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25cmクーデ型コロナグラフ鏡筒の背面に,有効口径20cm(焦点距離5m)の対物レンズとリオ・フィルターによる高解像Hα単色像撮影装置を取り付け,分解能 0.5秒の良質画像を得た。これにより昭和57年(1982)9月,観測史上最大と思われるフレアの全容の写真観測に成功した。
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昭和55年(1980)には,昭和43年より薄膜干渉フィルター(中心波長6563Å)を利用した紅炎のHα単色像の写真観測を行っていたが,昭和48年(1973)より狭帯域干渉フィルター(中心波長6563Å、透過巾5Å)を使用し,更に昭和53年(1978)より4種の狭帯域干渉フィルター(6563Å- Hα線,6374Å-コロナFeX 輝線,5876Å-ヘリュウムD3線,5303Å-コロナFeXIV輝線 いずれも透過巾3Å)を使ってコロナ・紅炎の単色像写真観測テストを行い,本格観測に入った。
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昭和56年(1981)には,昭和28年以来コロナ緑色輝線スペクトルの強度測定用基準光源として利用されたタリウム放電管は輝度の安定に時間がかかることと,輝度に多少の変動をもっている欠点があるところから,これに変えて,オプチカルグラスファイバーを用いて太陽光球の光を直接分光器内に導き,輝線強度測定の基準とするテストが昭和54年(1979)より繰返し行われ,8月より実行に移された。
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昭和57年(1982)観測所の整備と円滑な運営を計り,観測研究体勢を整えた守山史生に代って日江井栄二郎が施設長を引継いた。
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昭和59年(1984)太陽面の二次元的分光観測を目的としたスペクトロヘリオグラフが開発された。また,セメル式偏光計と高分散の回折格子とを組合せることによって,活動領域の偏光分光観測が可能である新しい偏光計を作製した。
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昭和60年(1985),25cmクーデ型コロナグラフ鏡筒の背面を利用し,口径15cmの対物レンズ,狭帯域干渉フィルター(6563Å.5Å)とテレビカメラの組合せによって,Hα単色像による太陽フレアや黒点をテレビモニターによって,離れたところで監視録画出来る装置を開発,良質な画像を得ている。
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昭和61年(1986)10cmコロナグラフの時計駆動を開設当時から使用していた錘式から定周波数安定装置を電源とするモ-タ-式に取りかえると共に自動追尾装置の精度向上のための改良を行った。
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昭和62年(1987)固体撮像素子による受像実験が進められ長焦点分光器に取付けて,彩層,黒点や光球の活動領域等のスペクトル観測を行い,それらのデ-タは光ディスクに収録され,多くの情報量が短時間に取得出来る様になった。